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「手紙」を読んで、差別について持論をぶちまけたいのっ!!

本エントリは、東野圭吾作「手紙」についてのネタバレ含みます。あしからず。











東野圭吾作の「手紙」を読みました。
読書メータに辛らつなコメントを残すほど、僕はこの話が嫌いです。

あらすじとしては、強盗殺人を犯してしまった兄を持つ弟のその後の人生を淡々とつづっています。
兄と弟を繋ぐのは、毎月送られてくる兄の「手紙」
塀の中にいる兄の手紙は他愛の無い内容で、安穏とした暮らしを伺わせる。
一方塀の外にいる弟は負の財産を背負ったまま賢明に生きようとするが常にどこかで、強盗殺人の弟というレッテルを貼られ、破綻する。
そしてある日終に、弟は決意をして兄に「手紙」を書くことにした。

ざっと書くとこんな感じです。

以下ネタバレ

最終的に、弟は兄の縁を切る事を宣言した手紙を送る。
それにより、兄は自らがどれだけ弟に負担をかけていたのかという事に気づき、自戒の念に苦悩する。
僕自身の誤解が無ければ、この事で涙した人が多いのかもしれない。

正直、反吐が出るほど出来すぎた、作者に都合の良い理論だなと思った。
殺人者が持つ後悔の念をあまりにも軽薄に扱っていると僕は感じた。
間違いなく、東野圭吾は殺人をした事が無い(そもそも、していたら問題だが)
そのくせ、安易に話が作りやすいからという理由で、ミステリを選んでると思う。
ミステリはもっと(略


閑話休題
この作品では、合法的差別という概念が説明されているし、差別の無い世界なんて無いと登場人物の口を借りて宣言までしている。
即ち、現在の世界を一方的に決め付けているのだ。
差別の無い世界は確かに存在する。子供たちの世界がそれだ。
差別を持ち込むのは間違いなく大人である。
大人だけで社会は構成されている訳ではない。しかし、東野視線ではそれしかないのだ。
汚い現実世界をまるで写真を見ているかのように描くことで自分がそこから離脱できていると考えているのかもしれない。
それはさすがに言いすぎだし、偏見が強いが、少なくとも東野圭吾は差別容認派である事をこの作品を通して語っている。
同時に、読者全員を自らと同じ立場であると決め込み、同じ精神構造を持っているだろう、お前たちも、と上から目線で物語を書いているのに腹が立ってしょうがなかった。
精神レベルの低さを自慢げに書いているようにしか思えないからだ。
読者を馬鹿にしていると感じるほど訴え方が稚拙だ。

読書メータに投稿したコメントに、「これで感動したという人は相当冷たい人」と一文を付け加えたのはまさにソレ。
感動は共感という感情の動きがあって初めて生まれる感情である。
何に共感したかによるが、兄だろうと弟だろうとおにゃのこだろうと、この作品に出てくる登場人物は全て東野圭吾の分身であり、差別容認を推薦する冷酷なキャラクターである。それに共感したアナタは、間違いなく冷酷な人だ。
自分が冷酷であるという事を頭の片隅でも考えられなかったなら、使い古された言葉ではあるが、想像力が欠けているのだろう。読解力が無いと言っても良い。

僕自身は俗に言う博愛主義者だ。最も、誰も彼も愛する事と誰も彼も愛さない事は選択しないという意味で同義であり、もしかしなくても僕は世界で一番冷酷な人間だと思う。
だからこそ余計にこの作品へ寄せられるコメントの数々に苛立ちを感じるのだろう。
この作品にそこまで価値あるって評価する事が理解できない。
それはつまり、僕がこの世界にまだ絶望してないからだと思う。
差別の無い世界は実現出来ると僕は信じているからだ。
でも、この作品を価値ある作品だと認めた人たちは、この世界に絶望し差別の無い世界なんか無いよなと自分の心に言い聞かせる事によりその立場に居ない自分に安堵するという安楽な道を選んでいる。
それが全く持って許せない。
僕は、差別される側に回るとしても、絶対に差別する側には回らない。
ここが、多分決定的に異なっている点だろう。
その決意があるからこそ、差別容認を推奨する「手紙」が許せないんだと思う。

「仕方ない」「みんなそうだから」「現実は違うよね」

どれもこれも、差別から逃げる言葉だと思う。
真正面から向き合わないのは楽だもんね。

これは完全な人生観なので、「そこまで真面目に考えるなよ、中二病乙www」といわれたらそれまでの駄文です。
ま、そういう考え方をする人もいるのか、変わっているなぁと思うのが大人の対応だと思いますよ?

まとめ
「手紙」は有害図書。うん。やっぱり、これくらい言わないとエントリ書いた意味が無いよね。


追記
Q「そういえば、ArcCosineさんはよく「IE○ね」ってPostしまくってるよね。アレは差別じゃないの?」
A「IEは人間じゃないので、差別対象には入りません。僕は人間博愛主義者で、プログラムは徹底的な差別主義者です」
Q「最低ですね」
A「はい、最低です」
Q「○ねば良いのに」
A「本当に、たまに自分は○んだ方が世のためじゃないかって思うことが良くあります」
Q「でも、○ぬ気は無いんですよね?」
A「ええ。○ぬのは怖いので」
Q「自己中?」
A「自己中。超自己中」
Q「胸がスカッとするくらい最低ですね」
A「はい。僕は最低人間です。もっと罵ってください。ハァハァ」
Q「帰れ」
A「\e」

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